2019年05月03日

パイプを海にくゆらせて〜ピースボート乗船記【1】

2019年4月20日から8月1日まで、第101回ピースボートに乗船して世界一周中の編集長・池田美樹。船上から、旅のつれづれをお届けします。

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初めて会ったとき、その人はパイプをくゆらせていた。「パイプをくゆらせる」という表現を小説のなかでしか知らなかった私は、ゆったりとした椅子に座って笑顔でこちらを見つめる人と対峙した。

この人と結婚します。そういって、鎌倉の古寺にほど近い一軒家に連れていかれた。庭には、赤や黄色の塗装の剥げかけた古いブランコがあった。夫となる人はきっと、幼い頃、そこで弟と一緒に遊んだのだろう。

旅が趣味です。そういう私に、いくつくらいの国に行ったことがあるかと彼は尋ねた。正直に答えると、応接間の一角を手で示した。

「港のある国にはすべて行ったよ」

各国で買い求めたスプーンは数え切れないほどの数で、専用の棚に収められていた。彼は煙草を継ぎ足した。

「パイプを初めて見ました」というと、

「船から海に落としたことが何度かあるよ」と、笑った。

貨物船は、年に10か月は海の上をゆく。船長という仕事がどういうものか私にはわからなかったけれど、胸に浮かんだロマンなどという言葉は陳腐なほど、その日々は彼にとって日常なのだろうと思い直した。

傍らに英文の『TIME』が置いてあった。私の視線に気づくと、

「英語は、ずっと使っていないとすぐに忘れるからね」と、穏やかに言った。

港から入ると、国ぐには、どう見えるのだろう。その時、どう感じるのだろう。パイプで吸う煙草はどんな味がするのだろう。妻や子どもたちと離れている多くの日々を、どうやって過ごしているのだろう。

聞きたいことは山ほどあった。

しかし、次に会う機会はもうなかった。

国内での出勤時、エントランスでくずおれた彼は、あっけないほどすぐに逝ったと聞かされた。葬儀に、黒い服を着て出かけた。血のつながりのない親戚と一緒に、骨を拾った。

形見分けにもらったのは、使い込んだCASIOの『エクスワード』と、各国ごとに律儀にラベル分けされたコンセントのソケット類をまとめた袋だった。

あなたに使ってもらえれば、きっと喜ぶだろうと思って。そう言ったのが、夫だった人なのか義母だったかはもう、覚えていない。

ほどなく結婚生活に危機が訪れ、私はまた独りになった。そして今、世界を一周する船に乗っている。貨物船ではないけれど。

青という表現では足りないほど深いインド洋の海を見つめて、彼の見てきた海もこんな色をしていただろうかと考える。そして、語りかけてみる。

「お義父さん、私、港からいろんな国に入ることになったんです」と。

 


2019年05月03日 Posted by eri | カテゴリー: Life-Style | タグ: , , ,

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