2019年01月30日

香港、クルーズ、ひとり旅

目覚めると、背中に響くかすかな振動で、私は海の上にいるのだと気がつく。ほの明るいベッドサイドのテーブルを見れば、飲みかけのワインボトルが1本。もったいないことをした、部屋で飲むなんて。

電気を消すためにベッドを出て、バルコニーのほうを見る。ぽつり、ぽつりと白い光が見えるほかは闇だ。ガラスのドアを開けると潮の香りがする。

ここは客船の中だ。

女がひとりで旅に出ると、何かあったの、と聞かれる。髪を切ったら、ふられたの、と聞かれる古典的で使い古された、もはやジョークとしか取れない言葉だけれど、返事をするのも煩わしくて、誰にも言わずここまできた。

香港へのフライトを最後に選んだのはもう20年も前。社会人になったばかりの頃だ。手軽なデスティネーションとして人気だったこの地は、その後、ほかの様々な世界の場所に埋もれて、忘れ去られていたように見える。

わずかな時間を完全に自分のものにするために、九龍のオーシャンターミナルからクルーズ船に乗るという方法を選んだ。船が出てしばらく経つと、セルラーもWi-Fiも途切れた。これで、本当にひとりになる。

何か所も設置された厳重なセキュリティ・チェックを経て、この船に乗り込んだのは18:30。まだ夕陽がかすかに傾きかけた頃だった。スーパースター ヴァーゴ。乙女座という名のスーパースター。やっぱり、世界を救うのは女なのね、と私は笑う。

一晩だけのクルーズ。決まったレストランでの食事やエンターテイメント、ショー、プールなどは基本的にオールインクルーシブ。今夜はもう、ここから外へ出る必要はない。計画を立てることも、行き方を調べることも、予約の電話をすることも、顔色を伺うことも、わずかな言葉に棘に含ませることも必要ない。

財布だって必要ない。チェックイン時に渡されたカードですべてが事足りるから。明日の朝、チェックアウトのカウンターでクレジットカードをスライドさせるまで、私はすべてから自由で、安全だ。

Welcome、といわれると、クルーズが始まる。リラックスして集う人々の大半は広東語を話している。その中に、わずかに英語が混じる。

ゲンティンパレスでの食事を終えて、デッキ13、最上階のタベルナ バーへ場所を移す。ここからは香港島の夜景がパノラマとなって見渡せる。夜風がドレスの裾をはらませると、汽笛が低く響き、エンジンの振動が伝わってくる。出航だ。

普段、シャンパーニュに何か混ぜて飲むなんてシャンパーニュの神さまへの冒涜だ、なんて言っているくせに、こういう場所ではなぜかカクテルが飲みたくなる。シャンパーニュ・カクテルは、ビターで甘い。

急速に去っていった世界的メーカーとブランドの電飾を、いつか見た夢のように遠く感じ始めたら、私の知らない夜の始まりだ。レイディ、もう1杯いかがですか。アジアの若者のはにかむような接客を、心地よく感じる。普段、もっと遠く…そう、欧州や米国へ旅したときのような鎧も緊張も必要ないのは、私が彼らと同じアジア人だからなんだろうか。

プールを見渡すステージの上に、国籍混合のバンドが現れる。見るともなく眺めていると、よく知った曲を演奏し始める。AdeleのSet fire to the Rain。以前、この歌を聴いたのは、大地の広がる場所でのことだった気がする。今にも降りそうな雨を連れてきた。あれはいつのことだったか。

それから船内をひとめぐりして、カジノで楽しむ人たちの姿を見て、でも結局チャレンジはせず、もっとリラックスしようとリフレクソロジーを受け、ハウスワインを1本買って部屋まで戻ってきたことは覚えている。900以上もある部屋、きちんとたどり着いたのは奇跡だ。

そしてシャワーを浴びて、ワインを開けて…それからは覚えていない。おそらく、何も考えることなく眠ることができたのだろう。夢も見ずに今までいたのだから。

水平線の向こうがかすかに明るくなる。もうすぐやってくる朝、そしてまた港へ戻る船。香港島のスカイラインを眺めながら、私はきっとデッキ12のメディテラニアンビュッフェで朝食を食べ、さて今日は香港で何をしようか、と考えるのだろう。

そして日本へ戻って…どうするのだろう。

今は考えなくていい。その時に自分で答えを出せるだろう。私はまたベッドに入り、船のかすかな振動に身を任せる。もう少しだけ、波間をたゆたうように眠っていたいから。

写真・池田美樹


2019年01月30日 Posted by miki | カテゴリー: Life-Style | タグ: , ,

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