2018年02月17日

衰えてゆく自分を受け入れるということ。

文/池田美樹(編集部)

それはまず老眼からやってきました。

薄暗いレストランで、私はおしゃれなメニューの文字がよく見えず、わかっているふりをして適当なことを伝えるようになりました。ちらちらと文字がかすむので、夜に読書ができなくなりました。通勤電車の中で、iPhoneの文字が見えなくなりました。PC画面を見ていると、まぶしくて文字が読みづらいと思うようになりました。

それは目が疲れてるせいだ、仕事のしすぎなんだとずっと思い込んでいたのです。そして数年が経ち、私はついに、観念し、受け入れました。

わたくしは老眼である、と。

きっかけは、同い年の友人と会ったときです。なんだか目が疲れちゃうんだよね。まぶしくてさ。そんな話をする私に、

「ねえ、メガネをかけたこと、ある?」

と、友人はいいます。ずっと視力がいいから、かけたことないよ。そういうと、友人は言いました。

「最近、メガネデビューしちゃってさ」

彼女が取り出したのは、老眼鏡でした。なんだか最近、文字が見えづらかったの。それでかけてみたところ、本当に手元がよく見えて、びっくりしたのよ。

「ちょっとかけてみて」と、彼女に手渡されたメガネをかけてみたところ、驚きました。なぜなら、この数年間、ぼんやりとしか見えていなかった手元や小さな文字が、すべて、まさにすべてクリアに見えたからです。

ユーレカ! というのは、こういうときに使われる言葉じゃないけれど、まさにそのときの私はそう叫びたい気分でした。

自宅に戻ってすぐに、老眼鏡をネットで検索しました。なぜ帰りの電車の中でスマートフォンですぐに検索しなかったのかって?  だって、その頃の私はもはや、肉眼ではiPhoneの文字が見えませんでしたから。

「老眼鏡」という文字を打ち込んでいる自分が、とても悲しく思えて仕方ありませんでした。「老」眼鏡…私は老いていきつつあるのだ、という事実を受け入れられなかったのです。

検索していると、リーディンググラスという単語が目に入りました。老眼鏡のことをいうようです。「老」という文字がないことに少しほっとして、とりあえず目についたメガネを注文しました。

届いたメガネをかけると、iPhoneの文字がよく見え、暗いところでの読書も難なくこなせるのでした。49歳の老眼鏡デビューでした。

でも、老眼鏡をかけているという事実をなにか後ろ暗いことのように考え、コソコソと隠れるようにかけては外すという日々を送っていたのです。

私はそれまで、やろうと思えばなんでもできると、半ば本気で信じていました。今から宇宙飛行士や米国の大統領にはなれないかもしれないけれど、明日から本気を出しさえすれば、なんでもできるのだ、と(実は、そう信じなければ不安で生きられなかった、という表現のほうが正しいのですが)。

でも、老眼になってみて、やろうと思ってもどうしようもできないことや、変えようと思ってもそうはできないことがあるのだ、と、初めて心の底から理解できたのです。衰えてゆく肉体を、元に戻すことはできない。ならば、受け入れるしかないじゃないか。自分が老いてゆく存在なのだ、と。

そう考えたら、衰えてゆくことに抗い、突っ張ってきた日々が、いかにカッコ悪いものだったのかに気がついたのです。

なんだ、今まで私、何をがんばっちゃってたんだろう。認めちゃえばこんなに楽になれるのか。ゆっくり、ゆっくりでしたけれど、ついにそう思えたときの解放感と安堵といったら!

同時に「私とは違う、他のひとびと」に対して感じていたざらつくような違和感も、なぜだか少しずつ薄れていったのです。

私は少しずつ衰え、やがては消えてなくなるその過程にある。これは、変えようのない事実だ。ならば、なぜ人に対して突っ張る必要がある? その人がその人である、というのは、変えようがないことなのに。

だったら、そのまま受け入れればいいじゃん。自然にそう思えるようになりました。それは、これまで感じたことのない心地よさなのです。

もちろん、私は未熟な人間ですから(それも受け入れています)、日々衰えてゆく自分に時にはがっかりもするし不安にもなるし、人に何かいわれるとカチンとくることもあるし、私とは全然違う考え方をする人をまるごと理解するのは難しかったりしますけれど、基本スタンスを「変えようのないものは受け入れよう!」としたことで、ずいぶんと楽になったのです。

そうそう、老眼鏡をかけはじめた時に、78歳の母に報告メールをしました。返ってきた返事はこんなものでした(母は”ガラケー”使いの達人です)。

「おめでとう! あなたもいよいよ大人の仲間入りね」。

果たして私は今、大人の仲間入りができているでしょうか。

写真/池田美樹(編集部)



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